会員から

2018年9月13日掲載

「戦争を知らない子供たち」への遺言 ~「今」は「過去」の中にある~

日本ウエルエージング協会代表理事 安部雍子

1.段ボール製の赤いランドセル

私は現在満82歳。

開戦時は小学校2年の2学期終盤の12月8日でした。幼い私には、「戦争が始まった」という事の大義やら難しいことはさっぱりわかっていませんでしたが、「小学校」から「国民学校」へと名称が変わり、学校の入り口には「奉安殿」というのが祭られて、その前を通り過ぎるときは必ずきちんと一礼するように、と教わりました。どうやらそこにはかなり大事なもの、尊いものが祭られているのだという事でした。

その何もわかっていない私にとっての戦争開始の衝撃は、段ボール製の赤いランドセルに始まりました。戦争開始前に買ってもらったはずですから、もうその頃から本革製品は市場から消え始めていたのだろうと思います。軽くて楽、といえばそうなのですが、雨に濡れるとシンナリして、重くなります。上級生たちの革製のランドセルをいつも羨ましく思って見ておりました。改めて考えてみると、私が小学生(国民学校生)になったその頃、すでに革製品は貴重品で、なかなか手に入らない状態だったのだと思います。

父は、当時、決してお金持ちではありませんでしたが、別に貧乏という事でもなく、ごく普通の大企業の研究開発室勤務のサラリーマンでした。毎朝、出勤時の玄関で、母と父が交わしていた暗号めいたやり取りを覚えています。母が、「バンコンは?」(今晩のお帰りは何時ころ?)と声をかけますと、父が「ワッカンね!」(わからない、多分遅くなると思うよ!)と答えます。電信技術畑で働いていた父は、帰宅はかなり遅くなることが多く、子供の前で毎日こんなやり取りで帰宅時間の確認をする父母はそれなりに仲睦まじく、母はその答えで夕食の献立を考えていたのだと思います。

その父が、太平洋戦争が始まる直前に、独立しました。詳しいことは知りませんが、当時の企業は、社員の開発した特許をそのまま自社の物として登録し、現在のように開発者へ配分すること等はなっかったのだと聞いています。毎晩遅くまで仕事をし、電話の自動交換に関して等いくつかの特許を取ったと聞いておりますが、最後に「セレン整流器」の特許をを取って独立したのだと聞いています。

戦争が始まって、父の小さな町工場は急に忙しくなりました。この軍需景気で、よくも悪しくも私たちの運命は大きく変わったといってよいでしょう。

2.第一次疎開生活は箱根で

「鼻をおかみになるときは・・・」

戦局が順次悪化するにつれ、東京からは女・子供たちの姿が消えていきました。

私の家でも、母と子供たち4人(私と7歳違いのすぐ下の妹、生まれたばかりの双子の妹たち)、そしてお手伝いさん1人、の女所帯6人は、仕事に追われる父一人を東京に残して箱根・強羅の別荘にひとまず落ち着きました。食料は、管理人のおじさんが小田原辺りから仕入れてきてくれるお魚や野菜しかありません。たまたま西瓜を持ってきてくれたことがありました。私はそのおいしさに、種を全部大事にとっておき、別荘の庭に植えたものです。早く生えろ!早く実がなりますように、と、祈るように水やりをしましたが、結局芽一つ出ませんでした。ひどくがっかりしたことを覚えています。

先ず私の新しい学校を決めなければなりません。通学の便を考えて、比較的近くにあった某私立箱根疎開学園に通わせていただくことになりました。

寒い冬でした。雪は未だでしたが、霜が降り、寒気に縮かんだ手は手袋をしていても耐え難いほどでした。箱根の坂道を下り、学校の門を潜り暖かい教室に入ると、今まで凍り付いていた鼻水がどっと出て、私は自分の机に座ったままチリ紙を取り出して、その場でチーンと鼻をかみました。その時です。お隣の席からツンツンと肘うちされ、言われたこと――、「あなた、鼻をおかみになるときは、後ろを向いておかみになるものよ!!」―これが第1のショックで、続く算数の授業で、2度目のツンツンを味わうことになりました。

先生が黒板に数式を書き終え、「はい、これの答えは?」といわれて、思わず手を挙げ、立ちあがって答えました。「ハイ、○○です!」と。座席につくなり、また、あのツンツンが来ました。「あなた、○○でございます、でしょ!」・・。それまでこんなことを言われたことのなかった私は、豆鉄砲を食らった鳩でした。

第3のびっくりは、こんな別環境から飛びこんできた私が珍しかったのでしょう。上級生から声をかけられたのです。何とかの宮様と呼ばれておいででしたから多分高貴なお生まれの方だったのでしょうが、当時の私にはそんな意識もなく、「お遊びにいらして!」と

言われるまま、のこのことご自宅まで出かけて行ったのです。

ご立派というか、古びた家具・調度品に囲まれたお部屋に通され、女中さんというか女官さんというか、そんな方がしずしずとおやつを運んで来られました。見ると、なんと山盛りのピンク色の粉砂糖ではないですか! それがお雛様の時に雛あられや菱餅などを載せる朱塗りの腰高な器にこんもりと盛られ、当時甘いものなど殆どない時期でしたから、私は正直とても嬉しかったのです。でも、この山盛のお砂糖を頂く方法がわからない。スプーンも何もついていないのですから。宮さまは私が遠慮しているのだと思われたのでしょう、「さあ、どうぞ!」と勧めてくださって、先ずご自分の器を取られ、なんと!ペロリといきなり舐めて召し上がったのでした。安心して私もペロリ、そして嬉しくなってニコニコしてしまったわけです。考えてみれば、あのピンクのお砂糖は、間違いなく和三盆だったと思います。戦時中でも、ある所にはあったのですね。

第4のびっくりは、そのシーズンになる前に幸いにして次の疎開先―山形県―に引っ越してしまったおかげで経験はしませんでしたが、皆さんのお話によると運動会の応援が、「赤お勝ち遊ばせ、白お勝ち遊ばせ!」というのだそうで、多分私がその場に直面していたら、笑い転げてしまっていただろうと今にして思います。

3.第2の疎開先―山形県

私の人生を決めたいくつかの出来事

本土を空襲するB29が富士山を目指して飛来する頻度が高くなり、ひっきりなしに警戒警報が鳴るようになって、箱根も危ない、と、急遽父の故郷、山形県の寒村に移動することになりました。最上川の支流(野川)が大きくゆったりと流れ、山形の祖母に言わせると、西にあるのは西山、東にあるのは東山、南にあるのは南山、北にあるのは北山、と、名もなき山々に囲まれた小さな盆地の米作地帯です。

またまた転校先で皆に笑われました。なぜか? 箱根と同様、算数の時間に手を挙げ「○○でございます」と答えてしまったからです。こちらでは、学校の受け答えに「ございます」言葉は使わないのが普通だったのです。「靴を履いている」「スカート穿いてる」「言葉がおかしい」・・・・と、同級生からは白い目で見られるハメになりました。いろいろな経験をしているうちに、東京から来た、というだけで反感を持たれるのだという事もわかってきました。

私はこれまでの学校生活とあまりに違う環境にいきなり飛び込んで、ずいぶん反感を買ってしまっていたようでした。以降、私は出来るだけ周りの子供たちと同化するようにと、服装や言葉も注意していましたが、ナニセ付け焼刃、あんまりうまくいったという記憶はありません。私以上に苦労していたのは母で、父は東京で一人暮らし、乳飲み子の双子を抱え、ミルクも手に入らず、おなかをすかせて泣く双子の世話に追われ、装飾品、金目の物は父の親戚へと所有が移っていったことを私は知っています。私の大事にしていたアルマイトのお弁当箱(蓋に赤い百合の花が描かれており私のお気に入りでした)も「お国のために」と持っていかれました。

そして、双子の一人は栄養失調で1歳の誕生日前に命を失いました。あの日のことは忘れられません。母は留守にしており、私は双子の一人が具合悪そうだったので、抱き上げるとひどい熱があります。ミルクの代わりに用意されていた重湯を口に運んでやりましたが食べようとしません。けだるそうに細い声で泣くだけです。そして私の腕の中でぐったりとしていったのです。私はこの妹を抱え、母を探して田舎の町を泣きながら走り続けました。いまでも時々その時の切ない感情を思い出します。夕焼け空が美しかったことを何故か今でもくっきりと覚えています。

4.私の「それから」を決めたいくつかの出来事

いま、私の頭、髪の毛で隠されていて美容師さんしか知りませんが、大きな傷が3箇所あります。これは当時、虱がたかり、栄養失調も加わって腫れ上がってしまったオデキを切開した跡です。

本当は、このオデキの切開跡以上に、私を苦しめているものがあります。それは疎開先の、従兄の一人による強姦です。小学校4年生、まだ初潮もない時期に、男に犯されるのはただただ苦痛なだけでした。真っ赤なトマトが植えられた畑のなか、しっかりと抱きかかえられ、逃げようにも逃げられない、声を上げても誰も通らない真っ赤に実ったトマト畑の中での出来事でした。東京から来た女の子が珍しかったのでしょうか? 訴えたい父ははるか離れた東京で暮らし、妹を失って悲しんでいる母に告げることはあまりにも残酷なような気がして、また、疎開でお世話になっている以上、問題を公にしても母の立場が苦しくなるばかり、と。私はこのことを誰にも語らず、一生抱えて生きて行こう、と幼いなりに考え、結局そのまま今日に至りました。

4.戦争で失われたもの、得たもの・・・

そうです。戦争で失うものは、戦争時の爆弾や火事で失うものばかりではないのです。

東京で一人暮らしをしていた父は、料亭の女性との間に2人の男の子を設けていました。後年の話になりますが、私が大学を卒業し就職して数年後、父に突然呼び出され、新宿御苑で一人の男の子を紹介されました。「お前の弟だ、これからはお前が面倒を見てやれ」というのです。その男の子は国立大学の2年生だという事でした。父が去って二人になった時、私は聞きました。

「あなたは今何を勉強しているの?」

「小説を書いています」

「小説ってどんな?」

「今書きかけの物ですけど、持ってきました。読んでみますか?」

「そうね、見せていただこうかしら?」

そして彼から受け取った小説のタイトルには「妾の子」とありました。

彼もそれなりに苦しんできたのだな、と、その瞬間私は悟りました。そして彼が亡くなるまで私たちは親交を続けました。母には一切を告げずに。

こんな風に、戦争は様々な罪をつくり出すのです。単に爆弾を落として何人が命を落とし、財産を失って経済的に苦労した、というだけではなく、後々まで後を引くさまざまな苦しみ、悩みを肉体的、精神的に残していくのです。そして、戦場や空襲で命を落とした人々もお気の毒だけれど、長い人生、重荷を背負って生きることの辛さもまた、それなりに重くあるのだ、という事をわかっていただきたいと思うのです。もう、こんな苦しみを、今の若い方々に背負わせたくない、それが私の本音なのです。

しかし、また、この戦争という経験を通して得たものもあります。

人は環境によって暮らしが異なり、好みが変わり、生き方が異なるのだ、という事を実感させてくれたというのがその最大のものです。「赤お勝ちあそばせ、白お勝ちあそばせ」の世界から、「んだべさ」、そして「です、ます」の世界。この世の中には様々な言葉があり、生活や、価値観がある。戦後私は、生活のその違いや、方向性を調べることを生業としてきました。飲み物でいえば「紅茶」文化圏、「コーヒー」文化圏、「番茶」文化圏など、今言われているコンピューター型のものではありませんが、人の生活をきちんと見ること、その中での喜怒哀楽を今の社会の中で生かしていくこと――、そういう仕事を私はしてきたわけです。世の中からはマーケターと呼ばれる、そのもっとも初期の仕事を私はしてくることができました。その生活の価値観によって、例えば首都圏にはいくつかのゾーンがあり、町圏はどこまで、そこに住む人々の生活特性は・・・、といったようなことを調べ、飽きることはありませんでした。80歳まで、面白く、興味深い様々な事実を探り出し生きてくることが出来たことを、有難く思います。そうです、災い転じて福、そういうことです。

いま、きな臭い匂いがあちこちでしています。お若い皆さん、一時の勢いで連れ込まれてはいけません。どうぞ後々のために、きちんと立ち止まって、よく考えて行動してください。そして、なにがあっても、「絶望」だけはしないでください。これが、私の、お若い方々に「贈る言葉」です。